昭和42年(1967年)生まれの飯田さん。現在、株式会社agri new windsの代表取締役として、ハウス2haと露地5haにおいて、ピーマンを中心に、ミニパプリカ、サニーレタス、メロン、薬草の生産・販売及びこれらを利用したピクルスやレトルトカレーなど加工品の販売に取り組んでいます。また、茨城県農業法人協会会長や茨城県農業経営士協会担い手確保育成委員長、神栖市農地利用最適化推進委員としても精力的に活動しています。
(株)agri new windsのWebサイトをご覧になればわかるように、常に新しいことにチャレンジを続ける飯田さん。そんな多忙な飯田さんに、2時間30分にわたりインタビューする機会を得ました。今回はその内容の一部を紹介します。飯田さんのご活躍の出発点である就農以前のことにかなりの字数を割きました。2回シリーズで掲載しますので、最後までご覧いただければ幸いです。
野球部で誰にも負けない体力と精神力を養う
飯田さんは、銚子市立銚子高等学校野球部に所属し、高校3年間は野球漬けの毎日を過ごしました。毎朝5時30分に家を出て電車に乗る。練習を終えて夜9時8分発の最終電車に乗って帰宅。土曜も日曜も練習です。また、当時の部活の常として、練習はもちろん、先輩・後輩の上下関係も相当厳しいものでした。高校時代の経験で、誰にも負けない体力と、少々のことではくじけない精神力が養われたそうです。
電気専門学校とアルバイトで電子回路の技術を習得
高校を卒業すると東京都大田区にある、電気関係の専門学校に進学しました。電気の中でも、強電気の分野を学び、電気工事の資格取得を目指しました。電気は技術が急速に進歩する時代にあたり、その技術は面白いと感じたそうです。
専門学校時代には、アルバイトをいくつも掛け持ちしました。その中には、携帯電話を製造する会社がありました。電圧を変換する回路の試作では、秋葉原の電気街で調達した電子部品を組み立て、オシロスコープで波形を見て動作を確認しました。「アース(マイナス電極)をどこに落とすかで回路の性能が変わってくる。回路の試作は本当に面白かった。」と振り返ります。
専門学校とアルバイトで養った電気の知識と技術が、後にピーマン施設の自動化で大いに役立つこととなります。
一方で、東急池上線石川台駅前の居酒屋でもアルバイトをしました。店主からは、いきなり厨房に入るように命じられ、やがて任されるようになりました。
飲食業の面白さにのめり込む
専門学校を卒業した後は、都内で仕事を探しました。しかし、飯田さんの選んだ道は、電気関係ではなく飲食業の世界でした。
「アルバイトあるあるですね」と笑う飯田さん。居酒屋でのアルバイト経験で飲食業の面白さを知った飯田さんは、神田、渋谷、広尾など都内5店舗を展開するサンドイッチ専門店に就職しました。
やがて、お店を廻す手腕が認められ、27歳の時に池袋にあった串焼きの専門店に転職しました。飯田さんは、担当する店の売り上げを2倍にすることを目標に、PRや販促活動に取り組みました。週変わりの「おすすめ料理」のメニュー作成のため、閉店後午前2時に帰宅したあと、ワープロに向かいメニューを打ち込む。カラープリンターが普及していない時代、それをカラーコピーしてランチに間に合わせる。広尾のカフェバー(注1)を担当したときには、ウイスキーやスピリッツ(注2)のラベルを丁寧に剥がして、貼り付けてお店の看板を自作しました。「たくさんの店舗がひしめく都心では、何のお店かすぐにわかったほうが、お客さんを呼び込みやすい。」そうです。
「当時を振り返ると、午前3時に自室に戻り2時間だけ寝て、早朝築地に買い出しに行く。午前8時に帰って仮眠してから仕事にでる。」という生活でした。このハードな時間の積み重ねで、担当したお店の売り上げを確実に倍に伸ばしていきました。都心での激戦を経験した飯田さん、やがて農産物の販路開拓に力を入れるようになるのは、自然な流れと言えます。
まだ、バブル景気とその余韻の残る都心。「面白いと思ったことは何でもやってみよう。すぐに結果が出なくても、巡り巡って儲かるようになればいいじゃないか。」そういった時代の空気の中で、飯田さんは20代を過ごしました。
(注2)ジンやラム、ウォッカ、テキーラなどの総称
31歳でUターン就農
都内で、24時間よく働きよく遊んでいた飯田さん。平成11年(1999年)31歳の時に父親の跡を継ぎ就農することを決断しました。
就農を勧めたのは飯田さんのおじ様にあたる方でした。おじの話を聞き、真剣に将来を考えはじめた飯田さん。「日本はバブルがはじけて、このまま都内にいたらやがて借金を抱えることになる。父親も60代となり、自分がやらなかったらハウスや農地はどうなるのだろう」。そのころ、伴侶となる女性とも巡り会い、それを期に地元に戻り就農することを決意しました。
就農当時の飯田家の経営は、50aほどのハウスでピーマンとトマト、スイカやメロンを栽培する、多品目施設野菜経営でした。飲食業では手腕を発揮していた飯田さんですが、農業は初挑戦。「父親はあまり教えてくれなかったので、栽培技術を少しずつ覚えていくしかなかった。」と振り返ります。
台風被害が法人化への転機
平成14年(2002年)、34歳の時に長男が誕生、その年の10月1日に関東に甚大な被害をもたらした「台風21号」に被災し、飯田家のハウスは大きな被害を受けました。この時、お父様は農業の継続をあきらめかけていたこともあり、飯田さんは経営を継承し、資金を借り入れるなどしてハウスの再建に取り組みました。その際、「災害に強い施設」を目指し、排水対策など生産基盤を一から見直しました。
「災害は5年あるいは10年ごとに必ずやって来る。それに対抗するには、被害を受けてもすぐに立ち直れる体力をもった経営でなければならない。」と強く感じました。これを期に、資金調達にも有利な法人経営を志向するようになりました。やがて、平成24年(2012年)6月に、作物を生産・販売する株式会社agri new windsを設立することになります。
事実、法人化後に、再び台風に被災し施設約100aのビニールがすべて破損した時には、銀行からの融資や資材販売店の協力を受け、わずか2か月で全面復旧させています。
ピーマン施設管理作業の自動化に挑戦
経営を継承した飯田さん。施設規模を拡大しながら、これまでの多品目施設野菜経営からピーマンを中心とした経営に転換していきました。
ピーマン栽培は、施設の管理作業に手間がかかり、それが規模拡大の妨げとなっていました。特に潅水作業は、まる1日を要し省力化が急務です。ここで飯田さんは、20代の頃に培った電気の知識・技術を活かすことになります。制御のための基盤を設計・作成し、マグネットスイッチやタイマーを調達して、潅水作業の自動化を実現しました。次に、養液土耕システムの自作に挑戦しました。養液が最適な肥料濃度となるように、潅水する水の圧力・流量、混入する液肥の流量等を計算し、それらを制御する基盤を設計・作成し、複雑な養液土耕システムを完成させました。
生産方式の革新に精力的に取り組む飯田さん。これでも、就農してからは、「東京での生活に比べると、農業はゆとりがある。使える時間がたくさんある。」と感じたそうです。(つづく)