第2回 常に一歩先を見つめ地域をけん引 ←現在の記事
東日本大震災を契機に販路開拓へ
平成23年(2011年)、飯田さんの経営に変革をもたらす、大災害がやって来ました。東日本大震災です。その時、作付けの90%がピーマンで、数千万円を売り上げていました。しかし、福島第一原子力発電所事故に伴う風評被害のため、ピーマンに限らず本県産農産物は大きな打撃を受けました。
このとき、生産した農産物を安定的に販売することの重要性を痛感し、商品を増やしながら販路の開拓にも力を入れることにしました。
ピーマンのブランド化は新品種で
収益を向上させるためには、ブランド化などにより付加価値を高め、販売単価を確保することが重要です。しかし、ピーマンは、差別化が難しい品目の一つです。そこで飯田さんは、ピーマンの新しい品種に注目しました。それは、オランダで育成されたパプリカを小型にした「ミニパプリカ」と呼ばれるもので、これまでのピーマンにない甘さや香り、食感をもつことが特長です。飯田さんは、日本の種苗会社を通じて、種子を購入し、栽培を開始。手応えを感じて、「スイートカクテルペッパー」という商品名を付けて販売することにしました。商標登録の申請は、もちろん自ら行い、パソコンで書類を作成して、特許庁の窓口に直接足を運びました。「今の役所はとても親切だ。質問すると丁寧に教えてくれる。だから手続きは何でも自分でできるんだ。」と言います。
しかし、平成24年(2012年)2月に商標登録されたものの、市場に送ってもほとんど売れ残る状態が続きました。その後、販促活動を重ね商品の良さをPRした結果、現在はキロあたり1200円前後で取引されるようになり、会社のメインの商品に成長しました。
念願の直売所をオープン
株式会社を設立して2年後の平成25年(2013年)10月。販売の拠点となる直売所をオープンさせました。その名は、「農産物直売所FARMER’S PALLET WINDS BASE」。6次化の法認定を受けるとともに、多額の資金を調達。国道に面した元々農産物直売所のあった建物を改装した、加工施設を備えた店舗です。FARMER’S PALLETの由来は、絵を描くときに使うパレット。絵の具のように違った個性を持った人たちが集い、地域を活性化させたいという願いが込められています。
「スイートカクテルペッパー」に代表される新商品の開発や販売拠点の設置など、販売への努力を積み重ねた結果、現在は、生産量の1割は市場に出荷し、残りの9割は直売所のほか様々なつながりの中で開拓した販路での販売となっています。
生産部門と販売部門を分業化
農業経営は、生産から収穫物の調製、出荷までを切れ目なく一貫して行うことが普通です。会社を設立して、5~6期目ごろから、会社の機能を作物の栽培管理と収穫までを行う「生産部門」と、収穫物の調製・出荷・販売を担う「販売部門」の2つに分割しました。このようにしたことで、生産部門は、作物の栽培管理と収穫に集中でき、収穫は午前中に終了し、土曜と日曜は休みをとることができるようになりました。現在、生産部門は、社員2名(うち1名は障害者雇用)、パート3名で運営しています。
販売部門は8名で、うち2名は事務系の職員(契約しているIT企業からの派遣社員)で構成しています。事務系職員は、販売部門の経理、販売システムの構築やWebサイトの管理・運営なども担当し、注文を受けてから、収穫・調製して出荷するシステムとなっています。会社のWebサイトを閲覧すると、プロの仕事であることが理解できると思います。「事務系の職員を入れたことで、会社経営そのものがうまくまわるようになり、黒字経営に転換することができた。農業経営は、とかく生産部門が注目されがちだが、事務部門をしっかりさせることが極めて重要であることがわかった。」と振り返ります。
また、販売システムを構築したことで、ECサイトを用いた販売が活性化し、ピーマン以外の品目や加工品開発に注力することができました。会社のサイトを見ると取り扱う商品の豊富さに驚きます。
茨城県農業経営士会担い手委員長として
平成19年度(2007年)、若干40歳にして茨城県農業経営士に認定された飯田さん。令和3年度(2021年)からは、茨城県農業経営士協会担い手確保育成委員長として活動しています。飯田さんは、農業の担い手を確保育成するには、子供の時に農業にふれる機会を持つことが極めて重要であると考えています。
飯田さんは、近隣の私立中学校からの依頼により「農業」の授業を受け持つことになりました。授業では、「農産物をブランド化するにはどうすればよいか」という課題を出し、生徒たちに考えさせるようにしました。「面白いアイデアがいくつもあり、学校の授業に「農業」の時間を設ける必要があることがあらためてわかった」と言います。今、学校での農業教育実現に向けて、関係機関等に働きかけを行っています。
茨城県農業法人協会会長として
令和3年(2021年)6月7日から茨城県農業法人協会の会長となった飯田さん。農業法人協会は、メンバーの利益に繋がる活動であることが求められます。そこで、セミナーでは、アントラーズのトップを招き、農業とスポーツ業界の連携について講演してもらいました。
また、経営者として最も留意すべき事柄として、「パワハラ・セクハラ」の問題についても情報提供を行いました。参加した法人協会会員の中にはその内容を従業員教育に活用する方も現れるなど、飯田さんの企画するセミナーは大きな反響を呼んでいます。
新型コロナを期に事業を多角化
今、会社のサイトを見ると、事業内容として、農産物や加工品の生産・販売に加え、農福連携、収穫体験(食育教育)、ソーラーシェアリング、耕作放棄地活用事業、担い手育成事業、農泊事業や薬草の栽培支援にも取り組んでいます。
これらの一部は新型コロナ感染拡大の中、活動が制限されてできた時間を活用して、関連する企業等と連携して取組を開始したものです。「苦しい時にこそ人は成長する。そして、打開策を出して問題をクリアしていくものだ。」と言います。確かに、飯田さんのこれまでの「歩み」を見ると、台風被害や原発事故による風評被害など、経営上の危機に遭遇するたびに、それらに負けない強い経営にすべく、法人化や販路開拓などの経営改革を断行しています。
人とのつながりを大切に
飯田さんが大切にしているのは、人とのつながりです。飯田さんが就農したてのころ、普及指導員の指導により還元型太陽熱土壌消毒の実証圃を設置しました。また、IPMについても指導を受け、その結果を実証圃担当農家である飯田さん自身が、全国の普及指導員研究会で発表しました。34歳の時には、米国へ研修に行く機会を得ました。これらの体験から、普及センターをはじめ、人とつながり一緒に取り組むことで、情報が共有でき、結果的に利益を生むことを実感しました。
飯田さんの並はずれた行動力の源は、常にポジティブに考え、「それぞれの取組は、時間がかかるかもしれないが必ず利益に繋がる」という確信を持てることにあるように思います。「次は何をやろうかと常に考えている」そうです。
そんな飯田さんをご家族はどのように見ているのでしょうか。飯田さんは「我が家の方針として、奥さんには一切農業をさせなかったし、家庭では仕事の話はしなかった」。「仕事の悩みは常にあったが、家に帰れば一人のパパに戻れることが結果的に良かった」と振り返ります。さすがに最近は奥様から「何にでも手を出すのは、いいかげんにしてほしい(笑)」と言われるとか。
すでに起業家と呼ぶほうがふさわしい飯田さんには、神栖という地域を、農業を中心とした事業展開により、もっと人が集まる場所にして活性化させたいという願いがあります。飯田さんは、常に新しいことにチャレンジし続けています。飯田さんのチャレンジは、神栖という地域をどのように変化させ実を結ぶのか、これからも注目したいと思います。