農業を営む方の中には、経営の将来に向け、事業承継を検討している方も多いと思います。
農業における事業承継は、承継相手により「親族内承継」と「親族外承継」に大きく2分されます。親族外承継の中でも、従業員以外の経営外部の者や企業等へ事業を承継することは、「第三者承継」と呼ばれています。特に家族経営では、従業員を雇っておらず、親族以外の後継者の確保が困難な場合が多いため、事例は少ないものの後継者確保の一手段として注目が集まっています。
笠間市の地域おこし協力隊員だった川島さんは、第三者承継により同市の田村きのこ園の経営を引き継ぎ、新たな時代に向けて経営発展を目指しています。
事業を引き継ごうと決心した背景、前経営主と向き合い合意に至るまでの経緯などについて、お話を伺いました。
きっかけは「福王しいたけのおいしさ」だった
「学生時代は、独立就農を目指していました」と川島さんは言います。大学生のころ、農業アルバイトや大学サークル活動で農家の仕事を手伝ううちに、農家の生き方そのものにあこがれを持つようになりました。農業経営に必要な金融の仕組みなどを学ぼうと、卒業後はいったん農業関連金融機関に就職し、独立就農に向けて着々と準備を進めていました。
知人の農家宅で研修して就農しようと計画していたところ、就農支援制度の変更があり、予定していた農家宅では就農に向けた研修が受けられなくなってしまいました。
「どうしよう、と思っているときに、笠間市で地域おこし協力隊を募集していることを知ったんです」。
川島さんは小美玉市在住で笠間市はすぐ隣。農業関係の仕事に携わりながら、再び就農への道筋を模索しようと考え、地域おこし協力隊への応募を決意しました。その後2019年7月に「笠間市地域おこし協力隊」に採用され、県内外のマルシェでの笠間市産農産物のPR、インターネット販売サイトの立ち上げなどの支援活動を担当することになりました。
精力的に活動を行っていく中、川島さんは田村きのこ園の「福王しいたけ」に出会います。川島さんは「こんなにおいしいシイタケがあったんだ」と感動しましたが、同時に田村きのこ園には「シイタケ栽培を引き継ぐ後継者がいない」ことも知りました。
こんなにおいしいのに、なくなるの?
「より良いシイタケを作りたい」と現場に立ち続けていた田村仁久郎さん。二人が出会った当時、すでに81歳と高齢になっていました。肉厚で大きく、うまみのある「福王しいたけ」は、仁久郎さんが何年もかけて研究を重ねて編み出した独自の栽培方法によって生み出されます。
「このままでは、地域の宝が失われてしまう」と感じた川島さん。仁久郎さんから「1月からが『仕込み作業(※1)』で、一番大変なんだ」と聞き、「では1月からは私も手伝います。シイタケの作り方を教えてください」と申し出ました。
(※1)菌床の材料となるおがくずと栄養体を混合して袋詰めし、蒸気殺菌した後シイタケ菌を接種する工程のこと。
まさかの出来事と芽生えた決意
2020年1月、仕込み作業を習い始めて1か月がたったころ、仁久郎さんが体調を崩して入院し、すぐには復帰できない事態になりました。仕込み作業が中断すると、今年1年の収穫量が大幅に減ってしまいます。「残りの仕込み作業は、自分がやるしかない」と決意した川島さん。仁久郎さんが退院する3月まで、必死に作業を続けました。
川島さんは「このことがあってから、田村きのこ園の唯一無二の栽培技術をなんとしても後世に残したいという気持ちがさらに強くなりました。退院した仁久郎さんからも『よくやってくれた』って言ってもらえてすごくうれしかった。それまでは“市役所の人が、なんか手伝いに来てくれている”くらいの認識だったと思うんですが、あの時から仁久郎さんとの距離がぐっと縮まったと感じました」と当時を振り返ります。
第三者承継への道は何気ない会話から
田村きのこ園の「福王しいたけ」の栽培技術を残したい。そう決意した川島さんでしたが、当時は他人である自分が経営を引き継ぐことはまったく考えていませんでした。
「第三者承継が難しいことは、大学で所属した農業経営の研究室で学んでいたので、重々承知していたんです。独立して、別の場所で新しくきのこ園を作って「福王しいたけ」の栽培技術を承継するのが現実的かなと考えていました」と話す川島さん。
退院し、現場に戻ってきた仁久郎さんと一緒に作業を続けながら、川島さんは「このシイタケを残したい」という自分の気持ちを打ち明けました。
「あんまり覚えていないんですけど、ある日『自分もきのこ園を作るなら、いろいろ考えはじめないと』ってぽろっと言ったんですよね、作業しながら。そしたら仁久郎さんが、『なんだよ、それならここでやればいいべよ』って言ってくれたんです」
川島さんの第三者承継への道は、何気ない会話の中からスタートしました。
事業承継の具体的相談は作業しながら
引き続き、地域おこし協力隊の活動を行いながら、田村きのこ園での作業を続けていた川島さん。協力隊の活動がもうすぐ3年目を迎えるころ、川島さんは改めて仁久郎さんに「この事業を引き継ぎたい」という意志を伝えました。
「作業の合間の、お茶のみ休憩の時でした。そしたら田村さんが、『俺はもうできねえからな』っておっしゃって・・・。その後、より具体的な承継の相談をし始めたのは、協力隊の活動が3年目に入ってからでした」
どういう手順で、いつまでに、何を決めていくか。自分が協力隊として活動するのはいつまでで、その後どのようにしたいか。川島さんは第三者承継の構想(道筋)を考えていきました。そしてその構想を、改めた席を設けて話すのではなく、これまでと同様に一緒に作業をしながら、一つ一つ、段階を踏んで相談していきました。
みんなが納得できる合意書づくり
「4月から事業承継すると、『3月までの経費をいったん田村さんに立て替えてもらい、それを全部買い取るようになるから、そのお金の支払いをどうするか』とか、『田村さんにも開業当初は一緒に働いていただくので、その手間賃をどのように算出するか』とか・・・。これまでの関係とは違って、細々としたお金のことを取り決めなければならなくて、やっぱりお互い話しづらいこともありましたね。でも最後の最後には話さないといけない。そういうときは本当にどきどきしましたね」と川島さんは振り返ります。
また、きのこ栽培に必要な機械や施設は、田村さんから借り上げることにしました。作業場と農場は、田村家の住まいの敷地内にあり、買い上げるよりも現実的だと考えたからです。
「相場もない世界だし、かといって借りるものすべて金額で評価するのも、手間と費用を考えたら現実的ではなかった。最終的に、施設と機械を丸ごと借りる計画を立て、そこから漏れていた資産や資材については、その都度相談して決めていきました」
「協力隊3年目の年に、笠間地域農業改良普及センターや笠間市役所の方にも見てもらいながら、これまで相談してきたことをベースに、事業承継の『合意書』を作っていきました。具体的には、この機械や施設をお借りします、といった内容の合意書を作り、田村さんと一つ一つ読み合わせをして、ハンコをもらって・・・という感じで進めました」
また、川島さんは、事業承継の手続きを進めながら、論文や書籍などで情報収集を行っていました。「具体的な手続きのことも調べたりしましたが、成功要因、失敗要因などの情報も集めていました。論文はインターネットで見られる範囲に限られましたが、中小企業とか、商工関係の事業承継の書籍を読んでいました」
このようにして作成した合意書には、継承する資産の内容や、継承の時期と方法などが記載されています。また、特に敷地内にある施設を利用する場合は、親族の方の合意が重要です。その点については、「長男の方には、田村さんが別の場を設けて合意書の案を見てもらって了解をもらっていました。実際には合意書を作りながら『大半は貸借で進めていこう』など具体的な内容が決まっていく感じでした」
こうした努力の成果として、2022年4月、川島さんは税務署に開業届を出し、正式に田村きのこ園の「二代目」経営者となりました。
第三者承継を成功させるポイント
川島さんは、自身の事業承継を振り返り、「第三者承継ってやっぱり大変ですよね。親子間でもそうなのかもしれないけれども。100人いたら100通りの事業承継のやり方がある。一つの成功事例をそのまま横展開できるようなものではないという感覚があります」と話します。
川島さんは、第三者承継を円滑に進めるためには、譲る側と譲られる側、双方の信頼関係の構築が重要だと感じているそうです。「人と人との関係なので、その相性もすごく重要。どちらか片方でも、すごく意地を張って『絶対これはこれじゃないと無理』って言い張ったりしていたら、うまくいかなかったと思います。今まで何十年も事業をしてきたら、手放す寂しさもあると思うので、そんな中で事業承継を成立させるには、お互いの信頼関係がないとうまくいかないですよね。自分の場合は、田村さんの懐の深さがなかったら、絶対実現しなかったと思っています」
「もし、事業を譲れるなら譲りたい、という方がいたとしたら、『譲ることで何を実現したい』のか、気持ちを整理しておいてもらうと、譲られる側として助かると思う」と語る川島さん。「自分の技術をつないでほしいのか、農地を保全してほしいのか、お金がほしいのか、そういう気持ちの優先順位がついていると、譲られる側との大きなミスマッチを防げるんじゃないかな、と。『俺はここをこうしてほしいから、ここはちゃんとしてほしいけど、このあたりはお前に任せるよ』というやりとりができるといいと思います」
さらに第三者承継の事例を増やす方策として、「承継はやっぱり出会いや運に左右される部分が大きい。成功する確率を上げるのは難しい。だったら、譲る側と譲られる側の出会いを増やすこと、農家さんと農家さんじゃない人が接触する機会を増やすことが、承継事例を増やすことにつながると思います」と、自身のアイデアを教えてくれました。
「自分は偶然うまくいっただけ、と思っています。最後の最後まで詰め切れなくて、えいやーで進めたところもある。もし、親戚関係でもめたりするような事が起きたり、何かあったらここまでこれなかったと思うので、本当に綱渡りだった。運がよかったな、と思っています」
承継後の“これから”
川島さんがきのこ園経営を引き継いでから1年2か月後の2023年6月、仁久郎さんが急逝されました。あまりに突然のことで、ご家族も、川島さんも、気持ちの整理が追い付かなかったそうです。
川島さんは「これからは自分で考えて、仁久郎さんが人生をかけて残してくれたこの福王しいたけを必ず未来につないでいかなければ」とさらに強く決意を固めました。
「仁久郎さんは、本当に研究熱心で、『食べ物はおいしくなきゃいけない』っていつも言っていたんです。それでどんどん新しいことに挑戦されていました。その分、たくさん失敗もしてきたみたいですが。でも、現状に満足しないで、どうやればよりいいものが作れるか挑戦していくという姿勢は、本当に、一番尊敬していたところです。二代目となった自分も、そこはちゃんと引き継いでいきたい、と思っています」
唯一無二の技術、地域の宝。それを受け取った川島さんは、SNSでの情報発信などを積極的に行い、「福王しいたけ」の名前や作り手の想いを広く伝えています。また、EC(ネット通販)などの販路の開拓により、売り上げも少しずつ伸ばしています。
「直接相談することはできなくなってしまったけれど、仁久郎さんが大切にしていた考えをちゃんと引き継いで、自分の頭で考えてやっていかないと、と思っています」
笑顔の川島さんに、がんばれ!とエールを送りたくなりました。